皆さま こんにちは ^^ 那須土木㈱「くらしのリフォーム快適屋」いつもの新米でございます。 ここのところ、はっきりしないお天気がつづいていましたね🌧 そして気温は、と言えば涼しかったり、暑さが戻ったり。 皆さまは体調を崩していらっしゃいませんか。 私の周辺では風邪気味の人、気圧の変化のためか頭痛に耐えている人、季節の変わり目も 手伝ってなのか体調の優れない方が多い印象です。 かく言う私も昨夜は“通常、タイマーでOFFにするエアコンのセット”を失念しまして、今朝は 「やっちゃったぁ〜」と、後悔と喉の痛みで目覚めるという、トホホな状況 (>_<) 風邪をひき込むと、ほぼこじらせる傾向にある私です。まんまと屈する訳にまいりません! 躊躇することなくビタミンサプリとドリンクで、封じ込めにかかりました (*_*; これらは常備している、私の風邪予防アイテムなのです。 そして守備は、、、なんとか上手くいったようです (*^^)v 皆さまも、くれぐれもご用心くださいませね m(__)m いやぁ・・・そして、結局最終日の更新になってしまいました💦 反省しきりだったはずなのに、、可笑しいなぁ ('_') さてさて前回の続き、社員旅行2日目の模様をお届けいたします 🏰 まずは1か所目「山形県旧県庁舎と県会議事堂(文翔館)」の見学からです。 西欧の宮殿の様な佇まいの外観。 慣れた作業のつもりで取り掛かっておりましたが、思わぬ落とし穴が😢 「この作業のし辛さは何??」と困惑してばかりもいられませんので、 探っていたところ、なんのことは無い、自分がページ内の移動を繰り返した ための不具合だったのです(上手く説明できません〜💧)でも解消しました! さて、こちらの画像は「議場ホール」だそうです。現在は、会議場の跡を 結婚式や演奏会のホールとして一般に貸し出しているとのこと。 こんなに厳かな雰囲気の場所での結婚式って、いいなぁ。ここを選ばれる方 自体が既に素敵!私も戻れるものなら、もう一度ここで・・・ 👰ポッ とにかく、見る場所全てが美しいのです(語彙が乏しくて <(_ _)>) この建物の歴史は、初代県令三島通庸により1877年〜1883年にかけて建設され 山形大火によって焼失後、1916年に再建されて今に至っているそうです。 県庁舎等としての役目は1975年に終え、修復期間を経て1995年から一般に公開 されているんですねぇ。貴重な文化財です。 そう言えば、ボランティアガイドのお姉様が仰っていた「三島通庸(みちつね)」の名前、危うく聞き流しそうに なったのですが、辛うじて私の記憶の引き出しの〝怪しいデータ〟にヒットしました。 名前の文字を見て、やっとだったのですがね。何しろ私「みしまつうよう」さんと覚えていました。 小学生辺りからの刷り込みですねぇ。〇十年も間違った読み方をしていたんですもの、恥ずかしい限りです (*'ェ'*) 我が地元では、栃木県「那須野が原」の開墾を手掛けてくれた偉人として語り継がれている方ですよね。 学校では、三島農場(当初は“肇耕社”)を開設し、現在の【那須塩原市三島】の地名の由来の方だと、教わった 記憶があります(年代がばれちゃいますかね) そうそう、「那須野が原」開拓の歴史についてご興味がおありでしたら、「那須野が原博物館」にいらっしゃる事を お勧め致しますよ。ジオラマなどで詳しい展示(常設)がありますから。 **特別展や企画展も、なかなか面白いものが行われたりします** いつもの癖で、経歴などを調べてみましたよ。やはり、興味がありますから 👆 ・旧薩摩藩士(幕末、西郷隆盛の取り立てにより藩の役職に就いていた) ・大久保利通の計らいにより、明治新政府に出仕 ・1871年東京府参事 ・1874年酒田県令(旧庄内藩を所管) ・1876年山形県令 ・那須野が原に肇耕社開設(山形県令在任中) ・1882年福島県令 ・1883年栃木県令 ・1884年内務省土木部長 ・1885年〜1888年まで警視総監を務め、在任中に病に倒れ、54歳で亡くなる(あら、そうですかぁ54歳・・・) おぉ、なんともはや目まぐるしいと言うか、こんなにも要職を歴任した方だったのですか。 そして、肇耕社社長として那須野が原で実務にあたっていたのは、長男の彌太郎さんと仰る方なんですね。 存じませんでした(って言うか、習っても残らなかったのかなぁ) と、気付けば、三島さんだけでこんなに引っ張ってしまいました 😲 想定外の事態です(^^; 2日目の残している場所についてはまた次回、お届けしたいと存じます (`pq´)ゥシシ それでは皆さま、また来週お会いしましょう (@^^)/~~~ PS.台風15号に、十分お気を付け下さい。。 |
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